レッスンの理念

伝統的な歌唱法の継承

当アカデミーでは、三つの理念を基本に据えてレッスンを行います。その一つ目が伝統的な歌唱法の継承です。

私のキャリアを通して、様々な先生方に師事し、多くのことを学んできましたが、その中で最も大きな出会いが伝統的な歌唱法をきちんと指導できる歌手と出会ったことです。

あの有名な大歌手パヴァロッティは、自身の公開レッスンの中で、「真のテノールになりたければカバーする技術(パッサッジョ)を習得しなければならない」といった内容に何度も言及しています。彼はこの技術をテノールだけに限定していますが、実際にはテノール以外にとっても必須のテクニックです。

パッサッジョの説明には様々なものがありますが、その技術の習得には喉頭を下げるという動きが不可欠になります。しかしこれはただ下げるだけでは不十分であり、しかるべき位置まで下げる必要があり、その習得には10年にも及ぶ訓練が必要となるのです。

第2次世界大戦前後に活躍した大歌手たちの多くは、歌唱スタイルには国によって多少の差はありますが、しかるべき位置まで喉頭を下げる、という点に関しては、国境を越えてほぼみんなに共通しています。

しかし現在においては、しかるべき位置まで喉頭を下げる昔の大歌手のような歌唱というのは、残念ながらあまり見ることができなくなってしまいました。

私はこの歌い方を50年代にイタリア・オペラの分野で活躍したバリトン、ヨーゼフ・メッテルニヒの最後の弟子の一人であり、20年にわたりその教えを受け継いだバリトン歌手カイ・ギュンターの下で長期にわたり学びました。

さらに近年では、テノール歌手ジャンカルロ・モンサルヴェの下で、イタリアのアルトゥーロ・メロッキ(マリオ・デル・モナコの師)やエットーレ・カンポガリアーニ(レナータ・テバルディやルチアーノ・パヴァロッティの師)の教えを学んでいます。

レッスンでは、人から人へと受け継がれてきた確固たる技術に基づいて、生徒の声のポテンシャルを最大限に発揮できるように育てていくことを重視しています。

声を育て自分自身を変える

二つ目の理念は、レッスンを通して声を育て、自分自身を変えることです。

私は、これまでの歌手、そして教師人生の中で自分自身の発声方法を根本的に変えるという経験を、大きく分けると2回経験してきました。

一度目はドイツに留学して半年たったころです。自信をもってドイツにやってきましたが、当時の私の声は蚊の鳴くような細さで、ドイツの中ではまったく通用しませんでした。しかし発声を変える決心をし、それから約2年後にドイツの音楽大学に無事に合格し、さらにそれから約2年後にはドイツの歌劇場の舞台にソリストとして立つことができました。

この最初の変化で私がやったことは、これまで日本でやってきた方法を一旦捨て去るということでした。今まで歌ってきた曲は一切歌わず、発声の基礎から取り組み、徐々に人前で歌える曲を増やしていきました。

この時に取り組んだ発声法は一つ目の理念で掲げた方法とはまた異なるものでしたが、この経験は私に、どのようにすれば自分の発声的な課題を克服し、乗り越えることができるかということを教えてくれました。

もう一つの大きな転換期は、劇場で歌い始めて10年に近づいた頃に訪れました。劇場ではモーツァルトやロッシーニなど当時の自分にとって得意なレパートリーもたくさん歌いましたが、時にはヴェルディ「ドン・カルロ」のポーザ侯や「椿姫」のジェルモンなども歌わなければなりませんでした。仕事ですから、もちろん当時の技術を総動員して実際に舞台で歌いましたが、私には、自分の歌い方が伝統的な歌い方とは異なることが実感として分かっていました。そしてそれを克服したい、しなければならないと思っていたのです。

その頃同僚の紹介で、ヨーゼフ・メッテルニヒの歌唱と出会い、その方法を学ぶ決心をします。ちょうどその後でコロナが始まり劇場が閉まるという事情が重なったことは、私にとってはある意味幸運なことでした。この間、約2年間をほぼ母音唱法に費やし、声、そして声を操る筋肉が実際にどのように育つのかを、自らの経験を通して一つ一つ学びました。

正しい歌い方を学ぶためには過去の癖とおさらばしなければなりません。しかしそれにはものすごい勇気が必要です。自分の歌い方には問題があったと気がついて、1年間母音だけでやり直すことができる人はどのぐらいいるでしょうか?

私はそのような勉強を経て、自らの声をそれ以前よりも確実に良いものへと成長させてきました。正しい練習によって声がどのように育っていくかを自ら経験したからこそ、教えられることがあります。

その経験を踏まえ、自分を変えたい、声を変えたい、その勇気をもった歌手達をサポートします。
そしてその上で、それぞれの声が本来持っている可能性を、長期的に育てていくことを大切にしています。

歌手としての音楽性を育てる

三つ目の理念は、歌手としての音楽性を育てる事です。

これまで私の発声のルーツと声を育てる事への理念を説明しましたが、その二つだけでは、いくら一生懸命勉強したとしても、それほど大きな価値はありません。なぜならそれらは音楽を扱う上での単なる道具にすぎないからです。良い発声も、良い声も音楽の中で適切に使う事ができて、初めてその真価を発揮できます。

舞台に立てる歌手になりたい、より良い歌手になりたいと思ったら、発声とは別に、音楽性においても高いレベルに達する必要があります。そしてそれは発声とは別にやるものではなく、常に意識しながら同時に育てていかなければならないものなのです。

厳しい現実ですが、オペラ市場においては、その人が本当に良いテクニックで歌っているかどうかはほとんど評価されません。それを正当に評価できる人というのは、本当に限られているからです。そのため多くの場合、良い技術よりも持ち声の良さが結果を大きく左右してしまいます。

しかし結果を左右するのは持ち声だけではありません。多くの場合において歌手の音楽性も厳しく評価されます

音楽性とは、リズム、音程、フレージングをはじめ、発音、言葉の理解、立ち振る舞い、表情、そして音楽そのものへの理解と様々です。これらの音楽的な要素は、多くの場合発声的な問題よりも、多くの人に認識されます。例えば音程が悪いとか発音が悪いというのは、誰にでも瞬時にわかってしまう事です。そのため厳しくジャッジされやすい傾向にあります。

プロの現場においては、発声に多少問題があったとしても、それらの音楽性において他を抜きんでていれば仕事をこなしていくレベルとみなされます。仮にどんなにテクニックに優れた歌手だったとしても、音楽の基本ができていなければプロとして仕事をこなしていくレベルにあるとはみなされません。そのため、プロとして必要な音楽的要素や音楽的感性というのは、できるだけ早い段階で身に着けておく必要があります。

もちろん高い音楽性というのは、歌手として勝ち残っていくために身につけるものではありません。最終的には自分の心を表現するために必要なものです。自分が培ってきた音楽性が高ければ高い程、それが自分の指標となって、身に着けた技術をどのように使って音楽をすればよいのかを教えてくれます。

すべての技術は音楽のためです。ドイツでの10年以上にわたる歌手経験を通して、自分自身を導いてくれるような音楽性を育てることも重視しています。