巨匠、演奏家、作曲家……なぜ「本物」が生まれないのか

目次

価値が薄れる「本物」と芸術家の信念

今回は、なぜ本物が生まれないのかについて話していきたいと思います。

これまでにも、巨匠がどうして減ってしまったのか、という話をしたことがありますが、それにも通じる話です。

演奏家にせよ作曲家にせよ、多くの音楽家が芸術家としての本物を目指して、それぞれ活動していると思います。しかし、50年前と比べると、やはり明らかに「本物」と呼ばれる音楽家たちの数が減っています。

「巨匠」という言葉は今も使われますが、本物の巨匠となると、やはり減っているのです。

そして、それにはきちんと理由があります。

どうして今、本物は減っているのでしょうか。逆に言うと、どうして本物はなかなか生まれないのでしょうか。

その理由を見ていきましょう。

パヴァロッティの信念

まずは本物の例として、偉大なオペラ歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの言葉とエピソードから紹介していきましょう。

パヴァロッティは20世紀を代表するテノール歌手で、間違いなく本物の巨匠の一人です。

20世紀前半は、カルーソーをはじめ、素晴らしい歌手たちがたくさんいた時代でした。パヴァロッティは、そうした歌手たちの伝統的な技術を受け継いだ、正真正銘の巨匠です。

そんな彼は生前、何度も次のように語りました。

「FやF♯の音をカバーできなければ、その歌手は本物のテノールにはなれない。彼は素晴らしい歌手にはなれるかもしれないが、本物のテノールにはなれない」

技術的な説明の詳細は今回は省きますが、それが彼の学んだ伝統的なテクニックです。

彼はそれを「カバー」という言葉で説明しました。そのテクニックを学ばなければ、素晴らしい歌手にはなれるかもしれないが、本物のテノールにはなれないと言っているのです。

この発言の裏には、いくつかのメッセージが隠されています。

一つは、彼自身が本物であるというメッセージです。彼は何度も聴衆の前で、そのテクニックを実践して解説しています。

そしてもう一つは、同時代のテノール歌手に対する皮肉です。

彼が本物を主張した背景には、同時代にすでに本物が減っていたことが挙げられます。

素晴らしい声のテノールはたくさんいましたが、伝統的なテクニックではなかった。彼らは素晴らしいキャリアを築きましたが、本物ではなかったわけです。

パヴァロッティはテノールに限定して発言していますが、これは実は、ソプラノやバリトンなど、ほかの声種にも当てはまります。

ただ、パヴァロッティは舞台上ではテノール以外の歌手とも共演しなければなりませんでした。そのため、あえてテノールに限定して発言していたのでしょう。

彼がこのような発言をした1980年代、すでにオペラ界は、本物ではない歌い方であふれかえっていたのです。

パヴァロッティの公開レッスンでの指摘

そうした指摘は、パヴァロッティの公開レッスンでも垣間見ることができます。

彼は1980年代に、すでに国際的なキャリアをスタートさせていた30代半ばのテノールをレッスンしました。

そして約30分間のレッスンで、若手歌手の喉が高いこと、そして、それを下げなければならないことを一貫して指摘し続けました。

この「喉を下げる」というのが、カバーに当たるテクニックです。言うのは簡単ですが、習得には10年から20年かかる技術です。

彼はレッスンの最後に、その若手テノールに向かって、もちろん今日のレッスンだけでは自分の言ったことはできるようにならない、それだけに集中して練習しても、少なくとも何週間もかかるだろう、と言っています。

この「何週間」というのは、控えめな数字です。

希望を打ち砕かないために、あえて控えめに言ったのだと思われます。実際には、経験と才能のある人でも1年から2年はかかるでしょう。

いずれにせよ、パヴァロッティはその若手に向かって、

「この方法をやり始めたら、最初は声を失ってしまうかもしれない。でも、それでもやらなければならない」

とはっきりアドバイスしています。

適当に「君は素晴らしい歌手だね」と言う先生もいる中で、パヴァロッティのアドバイスは、ものすごく本質的なものでした。

しかし、その若手歌手は、パヴァロッティの言っていることを理解できませんでした。

彼は、パヴァロッティが指摘したことを、レッスン中、自分ではできていると思っていたのです。「少し調子が悪くてできない」くらいにしか考えていませんでした。

つまり、本質が見えていなかったのです。

では、彼はその後どうなったのでしょうか。

彼は素晴らしい声の持ち主だったので、その後もキャリアを積み上げ、メトロポリタン歌劇場でも歌うような、キャリアだけを見れば一流の歌手になりました。

しかし彼は、最後まで、パヴァロッティが指摘した本物の歌い方はできませんでした。

彼がこの指摘をどのように捉えていたのかは分かりません。

ここからは、このようなときに起こりうるパターンを挙げながら、話を進めていきましょう。

不都合な価値を「なかったこと」にする

パヴァロッティが指摘した本物を身につけなくても、一流のキャリアを築いた歌手はたくさんいます。この若手テノールもその一人です。

仮に彼の目標が、最初からキャリアを築くことだけだったとしたら、パヴァロッティの言う本物は、彼にとっては最初から価値がなかったことになります。

彼は、持ち声や、本物以外の要素によって、すでに目標を達成しているからです。

とはいえ、その本物は、無視してしまうには存在感があります。

パヴァロッティのような偉大な歌手の発言ですから、それなりの重みがあります。

キャリアという目標は達成した。しかし頭の片隅には、**「自分は本物のテノールではないかもしれない」**という言葉が、常にちらつくことになります。

この話は、あくまでこのエピソードを例として、起こりうるパターンについて話しているだけです。その若手歌手本人の話ではないので、そこは誤解しないでください。

ぜひ、自分の身の回りに置き換えて考えてみてください。

自分では十分に目的を達成したと思っていた。しかし、そこに「君の方法は本物ではない」と言う人が現れた場合、どうなるでしょうか。

こういう場合、人の反応は大きく二つに分かれます。

一つ目は、

「これが本物だったのか。やっと本物に出会えてうれしい。自分も頑張って本物を目指そう」

と考えるパターンです。

もう一つは、

「今さら本物なんて言われても、それがなくてもキャリアを築いたし、目的も達成した。そもそも本物なんて必要ない」

と考えるパターンです。

今回の話では、主に後者のパターンが中心になります。

本物に出会わなくても、有名になる、大きな舞台で歌う、といったキャリア上の目標を達成した人はたくさんいます。

しかし、そういう人たちにとって、目の前に本物が提示されることは、もちろん人によりますが、時として邪魔になってしまう場合があります。

このような場合、ある種の防衛反応から、本物の価値を下げてしまうことが行われます。

「別にパヴァロッティが言うようにやらなくても、歌えるようになるよ。僕がその良い例でしょう」

「彼の言うとおりに歌わなくても、メトロポリタン歌劇場で歌っているでしょう」

といった具合です。

「パヴァロッティが言う方法以外の方法でも歌えるんだよ」というロジックが生まれます。

このロジックによって、本物の価値が相対化され、引き下げられるわけです。

本物に出会わなかった人にとっては、時として、本物に出会うことが脅威になったり、不都合な事実になったりします。

そのとき、自分のプライドを保つために、本物自体をなかったことにしてしまおうとする。

あるいは、本物があったとしても、そこまで大きな差ではないことにしてしまおうとする。

こういうことが、本人が意図したか、意図しなかったかにかかわらず、実は起こりやすいのです。

本物の消失

パヴァロッティの言う本物は、決して好みや主観の話ではありません。

声楽の歴史における、紛れもない事実なのです。

今回は分かりやすい言葉として、あえてベルカントという言葉を使いますが、パヴァロッティは、いわゆるベルカント唱法を受け継いだ最後の世代の一人です。

実際には、彼が最後というわけではありません。同世代には、フランコ・ボニソッリなどの優れた歌手もいました。

しかし、そういう歌唱で歌える歌手の数は、とにかくすでに減っていました。

そしてパヴァロッティが亡くなった後、その唱法自体がなくなったわけではありませんが、その方法でパヴァロッティのような大きなキャリアを築いた人は、ほとんどいません。

パヴァロッティの言葉どおりに言うのであれば、

「素晴らしい歌手はたくさんいる。でも、本物はいなくなった」

という感じになるでしょう。

さて、その言葉を突きつけられて都合が悪いのは、やはり本物の歌い方を選択しなかった歌手たちです。

先ほども言ったように、そのような不都合は、ないほうが都合がよい。

それなら、本物には大した価値などなかったことにしてしまったほうが楽です。

ちなみに、今は分かりやすくするためにこのような話をしていますが、本物がまったくいなくなったという話をしているわけではありません。

それは歌手一人ひとりによって違います。あくまで傾向の話ですので、誤解しないでください。

では、どのような方法で、本物の価値をなくしていくことができるのでしょうか。

「天才だったからできた」という置き換え

例えば、よく見られるのが、

「パヴァロッティは天才だったからできた」

という置き換えです。

実際には、パヴァロッティをはじめとする昔の偉大な歌手たちは、その師匠から技術を受け継いでいます。

その方法を習得するために毎日レッスンに通い、最初の半年から1年間は母音唱法しか行わないような徹底したやり方で、基礎をみっちり叩き込まれています。

だから、そこには価値があるわけです。

しかし、なぜすごいのかが分からない場合、「単に天才だったからできただけなんだ」という言葉で片づけてしまうことが、しばしば見られます。

このように相対化することで、パヴァロッティが基礎のために積み重ねた努力の価値を下げてしまうわけです。

芸術的な到達点をキャリアに置き換える

それから、先ほども言ったように、声楽的な到達点を、キャリアに置き換えてしまうロジックも見られます。

本物かどうかというのは、あくまで声楽家として、芸術家としての到達点です。

キャリアとはもちろん関係しますが、同じ物差しで測れるものではありません。

しかし、その物差しをキャリアに置き換えてしまうことで、

「ほかの方法でもキャリアを達成できたのだから、本物のテクニックは必要ない」

というロジックが生まれます。

世の中の習い事で言われる「自分に合った方法を見つけましょう」という言葉も、たいていはこれと同じ種類のロジックです。

「別に彼の言う本物でなくても、できますよ」と、価値を置き換えてしまうわけです。

「スペシャリスト」という新たな価値

ほかの例も見ていきましょう。

これは最近のクラシック音楽界でよく見られる手法です。

パヴァロッティの言う本物とは、まったく別のところに、自分たちが新たな価値を作ろうとする方法です。

それは、**「スペシャリスト」**という言葉でよく表されます。

パヴァロッティは、本当は歌手としてのスペシャリストでした。

しかし、それを彼が歌ったイタリア・オペラに限定してしまうのです。

彼はドイツ歌曲や、バッハのような古楽は人前では歌いませんでした。

そこで、パヴァロッティには歌えなかったジャンルというものを作り出すわけです。

そして、その分野で、例えば「バッハのスペシャリスト」「ドイツ歌曲のスペシャリスト」といったスペシャリストを作ります。

パヴァロッティの本物を、彼のレパートリーだけに限定し、ほかの分野にスペシャリストをたくさん作ってしまえば、パヴァロッティの本物の価値を相対的に下げることができます。

しかし、昔の大歌手は、オペラだけでなく、古楽から宗教曲まで何でも歌うことができました。

そういう歌手こそが、歌手としてのスペシャリストなのです。

しかし今は、ジャンルごとにスペシャリストを作る傾向があります。

「スペシャリスト」と言えば聞こえはよいですが、実態は、そのジャンル以外は歌えないことの裏返しである場合も少なくありません。

いずれにせよ、スペシャリストとして自分たちの価値を高めることで、相対的にパヴァロッティの言う本物の価値を下げることになります。

実例――ドイツ系とイタリア系

スペシャリストといえば、僕が学んでいた頃の日本の音楽大学は、スペシャリストだらけでした。

イタリアに留学した先生は「イタリアのスペシャリスト」、ドイツに留学した先生は「ドイツのスペシャリスト」と呼ばれました。

困ったのは、多くの学生がまだ若いうちから、

「俺はイタリア系だから」

「俺はドイツ系だから」

という専門意識を持ってしまうことでした。

しかし、ヨーロッパの現場で、そのようなことが通用するはずはありません。

イタリア・オペラであっても、ドイツで上演されるときにはドイツ語で上演され、時にはイタリア人であってもドイツ語で歌うことが日常茶飯事でした。

僕が衝撃を受けたのは、ドイツに来てから、イタリアの伝説的なテノール、ジュゼッペ・ディ・ステファノのインタビューを見たことです。

ディ・ステファノは、まさに「イタリア系」という言葉がぴったりなテノールです。

イタリア系を目指す人のお手本になるような存在です。

しかし、なんとディ・ステファノは、ドイツの1時間のテレビ番組に出演して、ドイツ語を話していました。

彼はウィーンでたくさん歌っていましたから、仕事をするうえで必要なドイツ語を身につけていたのです。

僕はそれを見て、日本における「イタリアのスペシャリスト」「ドイツのスペシャリスト」というものが、どれほど中身のないものかを実感しました。

音楽大学は本物を迎え入れてきたのか

音楽大学の話になりましたので、音楽大学ではどのくらい本物を教えようとしているのか、見てみましょう。

声楽に関しては、すでにパヴァロッティが主張していた1980年代から、本物が失われつつあったことには触れました。

これは、現場が本物とは何かすら分からなくなっていたということです。

だから、本物が日本になかなか入ってこなかったというのは、ある意味では仕方のないことかもしれません。

しかし問題は、果たして本物を積極的に迎え入れようとしていたかどうか、という部分です。

僕はもう20年以上、日本から離れていますから、今がどうなっているのかは分かりません。

したがって、僕が経験した20年以上前の話になりますが、当時の日本の教育現場には、本物をあえて遠ざける風潮があったと思っています。

例えば、海外で活躍した日本人演奏家が、積極的に日本に迎えられるということは、あまりなかったと見てよいと思います。

その理由は、やはり相対化です。

自分たちよりも明らかに活躍した人物を、例えば教授として新たに迎えることになったとき、それを自分にとっての脅威だと感じる人が出てくることは、想像に難くないと思います。

これは、実際にすべてがそうだったという話ではありません。

そのような反応が起こるのは、ある意味では自然なことだ、という話です。

中には、そのような人を歓迎していた人たちも一定数いたと思われます。

しかし少なくとも、それと同じくらい、あるいはそれ以上の人が、歓迎ではなく、自分の立場を守るための防衛反応を示したと考えられます。

ダン・タイ・ソンの例

一つ例を挙げましょう。

ショパン国際ピアノコンクールで優勝したダン・タイ・ソンは、一時期、日本に住んでいました。

そして、日本の音楽大学で、客員教授のようなポジションで働いていました。

しかし、彼ほどの経歴と才能がありながら、彼が日本にいる間に、どこかの音楽大学に正式な教授として採用されたという話は、聞いたことがありません。

つまり、教授にはならなかったわけです。

僕がもし音楽大学の学長の立場だったら、給料を倍払ってでも、教授のオファーをしなければならないと思います。

少なくとも、海外の音楽大学の教授と同等の給与を提示するでしょう。

実際にそのようなオファーがあったかどうかは分かりません。

しかし結果としては、客員教授のような曖昧な立場でしかありませんでした。

これは、現実的な落としどころがそこだったからだろうと推測されます。

教授として学校の内部にまで入ることを、おそらく内部の人間たちは歓迎していなかった。

しかし、ショパン・コンクール優勝者を非常勤講師という肩書で迎えるわけにもいかない。

そこで、「客員教授」という曖昧な地位で迎え入れたのではないか、ということです。

もちろん、このケースの本当の事情は分かりません。

しかし、こういうケースは実際に結構ある、という話として聞いてください。

自分たちより本物に近いところにいる人は、必ずしも両手を挙げて歓迎されるわけではありません。

しかし、それは大人の事情であって、本来、教育現場で起こるべきことではありません。

若者にとって何が最善なのか。

この視点が常に先に来なければ、質の高い教育にはなりません。

結局、音楽を勉強する学生たちが、本物、あるいは、より本物に近いところに触れる機会を、大人の都合で奪われてしまうわけです。

そのような学生たちの中から本物が生まれるというのは、無理な話です。

いずれにせよ、ダン・タイ・ソンは、日本ではあまりにも大切にされすぎるので、自分が怠けることを恐れて日本を出ました。

これは本人がインタビューで語っています。

結局、本当の意味で内部に迎え入れられることのない「お客様扱い」だったということだろうと、僕は推測しています。

その後、彼のもとからは、2大会連続でショパン国際ピアノコンクールの優勝者が誕生しています。

彼を日本の音楽大学が教授として受け入れていたら、日本の音楽教育の質は上がったのではないかと思います。

もちろん、本人がそれを受けるかどうかは、まったく別の話ですが。

社会から消える「本物」という価値観

今度は、話をもう少し身の回りに広げてみましょう。

実は、インターネットが発達した情報社会では、価値の相対化が日常的に行われています。

そもそも、本物に近づくためには、ものすごくたくさんの労力が必要です。

だからこそ、本物、あるいは本物に近づいた人には、ほかにはない価値があります。

しかし今の世の中は、何でもすぐに手に入るかのような情報であふれています。

例えば、

「英語が3か月でマスターできる方法」

「これをやれば、すぐに声が変わります」

「これをやれば、すぐにピアノが弾けます」

といった情報です。

これは、何かをやろうとしている人たちに対するハードルを大きく下げることにはなるかもしれません。

しかし、ゴールが近くにあるかのように錯覚させてしまうことになります。

つまり、「マスターする」「できるようになる」という価値が、誰でも簡単に達成できるかのように引き下げられているわけです。

実際には、決してそうではありません。

本物に近づこうとすればするほど、それに対して支払わなければならない労力や時間的な対価は、どんどん大きくなります。

僕だって、ドイツに来てからドイツ語をペラペラに話せるようになるまで、毎日5時間から6時間の勉強を、丸2年間続けました。

それでも「ペラペラ」というよりは「すらすら話せる」というレベルです。

「マスターした」と言うのであれば、さらに上があります。

絶対に3か月でペラペラになることなどありえません。

それは、片言の英語を「ペラペラ」と呼ぶことで、価値そのものを置き換えているだけです。

しかし、「絶対に3か月では無理です」と言えば、やってみようと思った人の大部分は、始める前に諦めてしまいます。

そうなれば本は売れなくなりますから、売るために、あたかも簡単にできるかのような言葉を並べるわけです。

誰でも発信できる時代と専門家の価値

また、誰でも簡単に発信できるようになったことで、専門家の価値も相対的に下がっています。

初心者には、話している人が専門家なのか、そうでないのかを判断することは、なかなかできません。

専門家ではない人のほうが、大げさでインパクトのある言葉を使う傾向も強く、逆に、そのような説明のほうが分かりやすいと思ってしまう場合も多いです。

また、誰でも発信できることで、まだ本物と呼べるほどの力がなかったとしても、動画や記事をたくさん公開し続けることによって、積極的に活動しているかのような印象を与えることも可能です。

これも、相対化と言うことができます。

本物に対抗するために作られる権威

世の中には、たくさんの権威があります。

中には、本物が結果として権威を持つようになったケースも、もちろんあります。

しかし、権威の多くが、本物に対抗するために作られたというところは、押さえておきたい点です。

本物になるだけの力がなかった。

そこで人が集まり、そこに新たな権威を作ることで、自分たちの活動の場を確保しようとするわけです。

日本では、すぐに「何とか協会」というものが作られます。

もちろん、すべてがそうだと言っているわけではありません。

しかし、そもそもの目的が、自分たちが活動するための権威を作ることになっている場合も多いので、やはり注意が必要です。

こうした権威は、相対的に本物の価値を下げてしまうことになりやすいのです。

芸術における「本物」とは何か

最後に、では本物とは何なのか、という話をしましょう。

ここまで「本物」という言葉を使ってきましたが、もちろん、芸術における本物の話として聞いてください。

科学の分野における本物とは、また違うと思います。

今回は例として、パヴァロッティの本物を挙げました。

しかし、これはパヴァロッティが考える本物であって、その一つの本物だけが、歌のすべてを定義するわけではありません。

フィッシャー=ディースカウやシュヴァルツコプフのような大歌手であれば、それぞれの信念に則って、自分の思う本物を主張するでしょう。

だから、「本物」と言ったからといって、正解が一つしかないという話をしているわけではありません。

では、本物の音楽家とは何でしょうか。

芸術家とは何でしょうか。

僕は、信念を持っていることが、本物になるための最初の一歩ではないかと思います。

偉大な芸術家は、自分の信念に基づいて活動しています。

それぞれの強い信念の中に、本物があると僕は思っています。

信念がなければ、「自分に合った歌い方でよい」といった相対化は、とても都合のよい考え方になります。

しかし、より優れた表現の手段を追求していく姿勢が信念になり、そこに本物が生まれるのだと思います。

そして、そういう本物は、芸術家の数だけあってよいと僕は思っています。

きちんとした信念があれば、そこに「これが本物だ」と主張できるものが生まれます。

そして、その中から、おそらく共通した何かが残っていくはずです。

それが、本物に通じていくものなのだと僕は思っています。

僕は、自分が本物だと思うものを主張します。

しかし、ほかの人は、自分が本物だと思うものを、信念を持って主張すればよいと思います。

若い音楽家が置かれている環境

ただ、現在の若者たちは、本物とは反対方向の価値観の中で音楽を学んでいます。

コンクールのように、平均的な演奏が評価されるシステムにさらされ、本物であることよりも、視聴回数を取れるような演奏が求められる価値観の中で生きています。

本物とは何なのか、ということすら分かりにくい環境で音楽を学んでいます。

情報も、とにかくありすぎます。

どこに本物へのヒントがあるのか、それを判断するだけでも大変です。

もしかしたら今の若者たちは、本当に賢くなければ、本物にはたどり着けないのかもしれません。

なぜ本物の巨匠が生まれないのか

声楽においては、すでに「本物」というものが、なかったことにされかけているという話をしました。

本物の巨匠が生まれないのは、その当然の結果なのです。

そして、ほかのジャンルでも同じことが言えます。

いずれにせよ、本物のレガートの歌い方が分からなければ、フレージングも分からなくなっていきます。

声楽家のレベルが下がれば、その影響はほかのジャンルにも及びます。

しかし、世の中の価値観の移り変わりを見れば、僕は、こうなるのは当然だと思います。

それでも、みんながそのような世の中を歓迎しているわけではないと思います。

だからこそ、僕はこういう話をしています。

ただ、僕がどれほどこのような言い方をしても、それを相対化しようとする意見は必ず出てくるでしょう。

残念ですが、それが現代社会です。

だからこそ、何が本物なのかに自分で気づくための目と耳を持つことが大切です。

そして何よりも、

信念を持つことが大切なのです。

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