今回は、音楽を聴くということについて話していきたいと思います。
実は音楽というものは、「音楽とは何ですか」と聞かれて、「音楽とはこういうものです」と一言で答えるのが、かなり難しいものです。
はっきりと言うことができれば分かりやすいのですが、残念ながら決してそうではありません。音楽の世界は、ある意味、哲学のような広さを持っています。だからこそ、大きな魅力にあふれているのです。
「音楽を聴く」と言ったとき、もちろん誰もが音楽を聴いているわけですが、実際にその音楽のどこを聴いているのかという話になると、案外、肝心な部分が聴こえていなかった、あるいは聴こうともしていなかったということが実によくあります。
これは演奏を聴く側だけではなく、実は音楽を演奏する側にもよく見られることです。
では、音楽を聴くとはどういうことなのでしょうか。
自分は本当に音楽を聴くことができているのか、一緒に考えていきましょう。
音楽を聴けていない人の特徴
まず、音楽を聴けていない人には共通する特徴があります。
それは、音楽をジャッジすることです。
皆さんも、思い当たることはないでしょうか。
もちろん、少しでもジャッジしてしまったら音楽を聴けていない、という極端な話ではありません。ただ、ジャッジする度合いが強ければ強いほど、音楽の本質は聴こえなくなるというのは、比較的はっきりとした傾向です。
例えば、皆さんは音楽を聴いたとき、最初にどのような感想が出てくるでしょうか。
「なんだか音程が悪いな」
「あそこがあまりそろっていないな」
実際に不甲斐ない演奏を聴いてしまった場合、このようなことは誰の心にも浮かびます。もちろん、僕だってそういうところは気になります。
ただ、ポイントは、それを実際に口にするかどうかです。
「あそこはいまいちだったな」と思うことは、誰にでもあります。しかし、それをSNSやYouTubeのコメント欄でわざわざ指摘しようと思ったら、それはジャッジしたいという衝動が強いサインだと考えてもよいと思います。
もちろん、これは演奏に対する期待値にも関係します。
2万円もするチケットを買ったのに、音程は合っていないわ、縦はそろっていないわ、という演奏だったら、何か言いたくなる気持ちも分かります。
しかし、ただのアマチュアの演奏会に行って、同じような感想しか出てこなかったとしたら、そこには音楽を聴けていない兆候が表れているかもしれません。
「うまいかどうか」で判断する聴き方
演奏をうまいかどうかで判断しようとすることも、音楽をきちんと聴けていない兆候かもしれません。
「うまいかどうか」というのは、結局、人をジャッジすることにつながります。
うまいかどうかは、技術力に対する判断です。もちろん技術力は、良い音楽をしているかどうかと密接に関係する要素です。
技術がなければ、いくら気持ちがあっても良い音楽にはなりません。
しかし、いくら技術があっても、それだけでは良い音楽にはならないというのも、音楽の本質的なところです。
馴染みの演奏と比べていないか
人の演奏と比べることも、案外、音楽を聴けていないサインである場合があります。
クラシック音楽が好きな人ほど、自分にとって馴染みのある演奏を持っています。そして、それがその人の中でスタンダードな演奏になっていることが多いのです。
自分では公平に比べているつもりでも、実は基準にしている演奏が、すでに自分の記憶や体験と強烈に結びついていることがあります。
ある意味では、単に聴き慣れているだけなのですが、人は聴き慣れたものを良いと思ってしまうことが多いのです。
そして、聴き慣れた演奏と比べて、
「ここが違う」
「あそこが良くない」
という話になっていきます。
これも、案外、音楽を聴けていないサインであることが多いと思います。
ほかにも、ピアノ演奏を聴いて、わざわざ「調律が合っていませんね」と口に出すことも、音楽が聴けていないサインかもしれません。
分かりやすい違いにとどまってしまう
このような聴き方をしている人は、かなり多いと思います。
それもそのはずで、今挙げたポイントは、聴いていて比較的分かりやすいからです。
音程が低い、リズムが甘い、縦がそろっていない、技術的にうまくない、カラヤンのCDと比べるとどこかつまらない。
こうした違いは、比較的分かりやすいものです。
これらは、音楽を聴き続ける中で、「違いが分かるようになってきた」と最初に感じやすいポイントでもあります。
だから、それが聴こえるようになると、以前よりも音楽が分かるようになったと感じて楽しいのです。
しかし、それこそが音楽を聴くことなのだと捉えてしまうと、実は音楽を聴くという行為は、その先にあるということに気づかないまま、音楽を聴き続けることになってしまいます。
このパターンは、聴衆だけでなく、演奏する側にも非常に多く見られます。
音楽を聴くとは、価値を見つけること
音楽を聴くということを、一言で表してみましょう。
音楽を聴くとは、音楽がそこに存在する価値を見つけてあげることです。
クラシック音楽の場合は、「そこに存在してきた価値」と言ってもよいかもしれません。
要するに、音楽を聴いて、その音楽の価値をきちんと理解できますかという話です。
音楽を聴いた後で、
「ああ、良い曲だな」
「こんなに美しい部分があったのか」
と、何らかの価値をきちんと見いだすことができた人は、聴き方が音楽の方向を向いていた一つのサインです。
しかし、音楽を聴いた後の感想が、音楽の価値ではなく、演奏や演奏者に対するジャッジに向かってしまったら、それは音楽を聴けていないということになります。
ここが大切なポイントです。
音楽に込められた「意味」を聴く
価値を見つけると言っても、少し抽象的に聞こえるかもしれません。
では、音楽はなぜ価値を持っているのでしょうか。
それは、そこに聴き手へ伝えるべき意味があるからです。
音楽は表現芸術です。
そこでは、言葉では言い表すことのできない感情や気持ちが、音として表現されています。つまり、そこにはきちんと意味があるのです。
この意味を聴き取ることが、音楽を聴くということになります。
その意味は、音楽が先へ先へと進んでいく勢いであったり、演奏者の息遣いであったり、優しいレガートであったりします。
そうした音楽の言葉によって表現されます。
楽譜の上では、ピアノもフォルテも一つの記号にすぎません。
しかし、実際のフォルテには、怒りのフォルテもあれば、喜びのフォルテもあり、驚きのフォルテもあります。
その意味は、何百通り、何千通りもあります。
それを感じ取ることが、音楽の意味を理解するための第一歩です。
もちろん、それは演奏者が意味を表現できているという前提のもとで初めて可能になります。
そもそも演奏者が、フォルテを単なる「大きく」という記号としてしか認識していなければ、聴衆に何かが伝わるはずもありません。
音楽を「手紙」に例えてみる
少し抽象的な話なので、手紙に例えてみましょう。
今、あなたの目の前に一通の手紙があります。
その手紙は、思いのこもったラブレターかもしれません。何か大切な告白が書かれているかもしれません。もしかしたら、世紀の大発見について書かれているかもしれません。
しかし、その手紙を読んで、
「なんだ、この手紙、字が汚いな」
「ここも漢字を間違えている」
「この文法は少しおかしいな」
という感想が先に出てくるとしたら、あなたはその手紙を読めていないということになります。
仮に、その指摘が正しかったとしてもです。
なぜなら、その人は手紙に書かれている内容に、価値を見いだすことができていないからです。
もしかしたら、お宝の場所が書かれているかもしれません。
しかし、それよりも字がうまいかどうかの判断が先に来てしまう。
これでは、手紙を読めているとは思えませんよね。
目に見えやすい部分ばかりを見てしまう
音楽に書かれている内容は、手紙に比べると、もっと抽象的で曖昧です。
だから、一見すると、そこに何が書かれているのか分かりづらく感じます。
そのため、音程やリズムなど、見えやすいところばかりに意識が向いてしまいがちです。
手紙の例は少し大げさだと思ったかもしれませんが、本質的には同じような反応です。
日本では、床の間などに、俳句や短歌を筆で書いたものを飾ることがあります。
もちろん、一番大切なのは、そこに書かれた歌の内容でしょう。
しかし、ただの飾りとして使うのであれば、内容はどうでもよく、きれいな字で書道の有段者が書いたような掛け軸のほうが見栄えがするかもしれません。
外国人が漢字の書かれたものを飾る感覚も、これに近いと思います。
「なんとなく見た目がクールだから飾る」というものです。
しかし、意味を理解していないため、そこに書かれている言葉が「弱肉強食」だったりすることに気づかないわけです。
これは、外国人の漢字のタトゥーを題材にしたジョークにもあります。
本人は漢字だからクールだと思っていたけれど、「阿呆」という文字をタトゥーで入れていた、といった話です。
音楽を目に見えやすいところばかりで判断し、肝心の意味を理解できていなければ、本人は分かっているつもりでも、これと同じことが起こってしまいます。
作品の背景を知ることと、芸術を感じること
音楽がよく分からないと感じる大きな原因は、音楽を形として見ることができないからだと思います。
だから、聴いたものの中でも、とにかく分かりやすいところに注目しがちです。
クラシック音楽の場合、それに加えて、作品の背景や、作られたときのエピソードなどに注目することもよくあります。
これは絵画でも同じです。
最近はYouTubeでも、絵画を解説するチャンネルが人気です。
ギリシア神話を題材にした絵画はたくさんありますし、聖書を題材にした絵画もたくさんあります。
聖書を題材とした絵画には、まだ文字を読めない人に物語を伝えるという目的もありました。
そのため、絵画をきちんと鑑賞するには、背景を知ることが大切だと、多くの人が考えていると思います。
確かに、これは大切な要素です。
音楽も、作品の背景を知ることで、作曲家の思いに共感しやすくなります。
しかし、絵画においても音楽においても、こうしたストーリーは、本質的には必須ではないというのが僕の考えです。
絵画の表情から何を感じるか
ルネサンス期以降の絵画は、ただ物語を伝えることだけが目的ではありません。
芸術家たちは、その作品によって、明らかにそれ以上のものを表現しようとしています。
そして、それはきちんと絵の中に表れています。
例えば、描かれた人物の顔の表情です。
僕は、絵を鑑賞するときには、その表情にどのような思いが隠されているのかを見ることが大切だと思っています。
それができれば、その絵のストーリーは、本質的にはそこまで重要ではありません。
自分で想像すればよいのです。
「なぜ、この人はこんなに苦しんでいるのだろう」
「もしかしたら、昨日こんなことがあったのかな」
そのように想像しながら絵を見るのも、それはそれでかなり楽しいものです。
しかし、仮に「この絵は聖書のあの場面だ」というストーリーが分かったとしても、肝心の、そこに描かれた喜びの表情や苦悶の表情が分からなければ、僕は、それを本当の意味で鑑賞しているとは思いません。
もちろん、顔の表情から意味を感じ取ることと、背景のストーリーを知ることは、きちんと両立します。
背景を知ることが駄目だという話ではありません。
ただ、僕は芸術の鑑賞というのは、本質的には、そうした情報がなくても成り立つものだと思っています。
知識が感受性を邪魔することもある
面白いのは、背景を一生懸命勉強すればするほど、本質的な見方や聴き方から遠ざかってしまう傾向があることです。
勉強をすると、どうしても頭で理解することが先に来てしまいます。
そうなると、心で感じることが、逆に難しくなってしまう場合があります。
こゆきと太郎から学んだこと
もう一つ、別の例を挙げましょう。
うちには、こゆきと太郎という2匹の柴犬がいます。
最近、2匹の生活スタイルも落ち着いてきたので、またドッグスクールに通っています。
こゆきはパピーの頃から通っているので、休み休みではありますが、もう2年以上通っています。
犬たちが学んでいることについては「それなりに」という感じですが、飼い主が学ぶことはたくさんあります。
この間のクラスでは、ジェスチャーについて勉強しました。
僕たちは犬に向かって、「お座り」「伏せ」「待て」といったコマンドを出します。また、何でも犬に話しかけることが多いですよね。
しかし、犬は短いコマンドを理解できるものの、基本的にはボディランゲージでコミュニケーションを取る生き物です。
その日のトレーニングでは、言葉を一切使わずに、「お座り」「伏せ」「待て」「おいで」などの基本的なコマンドを練習しました。
そのときに、犬は犬同士で、顔の表情だけでも180種類もの異なるサインを読み取ることができると教わりました。
僕は50種類くらいだと思っていたので、それよりもはるかに多い数字です。
つまり犬は、表情をかなり高い精度で読み解く能力を持っているのです。
犬は表情の意味を読み取っている
もちろん、これは表情に一貫性があることが前提になります。
人間は、実は犬ほど一貫性がなく、表情に矛盾を含むこともあります。
本当に思っていることとは違う表情を、意図的に外に見せることも得意です。
犬はそこまで得意ではありません。
犬の表情は、基本的に一貫しています。
嫌なときは鼻の辺りにだんだんしわが寄り、相手に、
「もう、これ以上近づくなよ」
というメッセージを送ります。
以前、ピアノを買った動画に、こゆきと太郎が一緒に登場しました。
実は途中で、太郎がこゆきにちょっかいを出そうとした場面があります。
そのときの、こゆきの表情に注目してみてください。
こゆきは鼻のところにずっとしわを寄せて、太郎に、
「これ以上やるなよ」
という明確なサインを送っています。
普段の太郎は、そんなことをお構いなしにちょっかいを出してしまうのですが、そのときは、それ以上やりませんでした。
人間にも意味を感じ取る能力がある
僕が何を言いたいのかというと、人間にも、おそらく本能的に、表情から多くの感情を読み取る能力が備わっているということです。
だから、ストーリーを知らなくても、絵画を見て、その顔の表情から大切なメッセージをつかむ能力はあると思うのです。
ただ、現代人は、そのような本能的な感受性をあまり使っていません。
そのため、ある程度の練習や訓練が必要なのかもしれません。
芸術は「分かる」より「感じる」ことが大切
少しずつ、音楽を聴くということが見えてきたでしょうか。
僕は、日本人には、頭で理解しなければ不安になってしまう傾向が比較的強いと思っています。
それは、○×採点方式ばかりの学校教育の影響だと僕は思っていますが、芸術の鑑賞においては、分かることよりも、感じることのほうがはるかに重要です。
しかし、分からないと不安になってしまうため、その反動として、分かりやすいポイントにとどまっていたいと考えがちです。
音楽を音程やリズムでジャッジしているほうが、そこに意味を見いだそうとするよりも、ある意味では安心なのです。
しかし、音楽を聴いた後、最後に口から出てきた感想が、
「チューニングが狂っていますね」
というものだけだったら、少し残念に思います。
ベートーヴェンにせよ、バッハにせよ、素晴らしいところはたくさんあります。
特にクラシック音楽は、何千人もいた同時代の作曲家の作品の中から、現在まで残った数少ない作品です。
そこには、たくさんの魅力があります。
僕は音楽を聴くのであれば、やはり、その価値に気づいてもらいたいと思っています。
その音楽が持っている素晴らしい価値を見つけてほしい。
ポイントは、そこなのです。
AIは文章の価値を理解できるのか
最後に、少し余談です。
この原稿をチェックするために、AIに読ませてみました。
するとAIは、
「犬が顔の表情を180種類も読み取れるという事実は確認できませんでした。ここは表現を確認したほうがよいです」
と指摘してきました。
これは突っ込みどころが多いのですが、AIは完全にポイントを見失っています。
大切なのは「180」という数字ではなく、犬が多くの表情を読み解く能力を持っていることです。
数字は、それを伝えるためのものにすぎません。
しかし、AIには、その意図を読み取ることができなかったわけです。
AIは、しばしば文脈を無視して、言葉だけを捉えて修正しようとします。
そこに書かれた内容の価値を、本当の意味では理解できていないのです。
ラブレターを読ませても、
「気持ちが伝わりました」
とは言わずに、
「ここの漢字が間違っていますので、以下が修正案です」
と始めてしまうでしょう。
しかし、僕たちはラブレターをもらって、まずそのようなことはしません。
幼稚園の子どもから「お母さん、ありがとう」という手紙をもらって、「字が汚いね」とは言いませんよね。
それは、そこに文字の正しさ以上の価値があることを、きちんと知っているからです。
音楽の価値を見つける聴き方
ぜひ多くの人に、音楽の素晴らしい価値を見つけるような聴き方をしてほしいと思います。
それができれば、音楽を聴いた後の満足感は、間違いなく上がっていきます。
その人が、その音楽の価値を見つけたからです。
そして、自分にとって音楽が、以前よりももっと価値のあるものになったからです。
音程やリズム、技術的な完成度を聴き取ることも、もちろん大切です。
しかし、音楽を聴くという行為は、その先にあります。
音楽が何を伝えようとしているのか。
そこにどのような価値があるのか。
それを見つけようとすることが、音楽を本当の意味で聴くということなのだと思います。

